大切な日常 〜終章〜
周囲を静寂が包み込む。それはまるで、死が全てを司っているかのように思えるほどだった。その部屋には男が二人、片方は白衣を纏っていることから医師であることが想像できた。そしてもう一人は、隣町に住むごく普通の男だが、その顔は生気が抜けているのではないか、と疑いたくなるくらい悲惨な顔をしていた。そして、その前には顔に白い布を被せられた一つの遺体が保管されていた。
「ご確認をお願いします」
恐る恐る白い布を取ってみると、そこには彼が七年間待ち焦がれた、最愛の人が確かにいた。そしてその瞬間、彼の淡い期待は無残にも裏切られた。
「はい、本人に間違いありません」
自分の体が、まるで自分のものではないかのように冷静に動き出す。認めたくない、一番恐れていた現実が彼の眼前に立ちふさがっていた。室内に広がる静寂が痛いほど心に広がった。悲しみや後悔の念が後から次々とこみ上げてくる。泣きそうになる自分を押さえ込み、無理やり平常心を保とうとする。しかし、涙は止まることなく溢れ出し、心は悲しみに染められていく。ただの一般人である彼にそれを止める術はなかった。
「実は彼女、七年前に急患として運び込まれた患者なんです」
医者がその重い口を開いた。
「何かの事故に遭ったのでしょう。意識不明の重体に陥っており、一刻も早くご家族に連絡すべきだったのですが、彼女の身元が特定できる物はおろか、その周辺では事故の形跡すら見つけることができませんでした・・・」
聞けば、その医者は彼女の主治医だったそうで、七年前の日からずっと彼女のことを見ていたとのことだった。
「手術は無事成功しましたが、彼女は数か月意識を取り戻しませんでした。この病院でもそういった患者は何人かいます。彼女が意識を取り戻し次第ご家族に連絡をするつもりでした。しかし、意識を取り戻した彼女はその記憶の大半を失っていたのです・・・」
彼は目を見開いて驚いた。自分が彼女を探していたその一方で、彼女自身はその記憶を失っていたなどと誰が想像できようか。そのドラマのような展開がどうしても信じられなかった。
「記憶の喪失だけではなく、彼女は事故の後遺症で病院での絶対安静を余儀なくされました。しかし、絶対安静にしていたからといっても余命いくらかも知れない命でした。そして、もちろん彼女にもそれを知らせました」
彼は何も言葉を発することができない。それがどれほど残酷な現実であろうと、彼は、眼前に突きつけられた恐ろしい現実に、言葉さえも忘れていた。そして、その現実を突きつけられた彼女のことを思うと、酷く心が痛んだ。
「記憶を失った当初、彼女は抜け殻のようでした。『心にぽっかり穴が開いたような、大切な何かを忘れている気がする』、と私も、そしてナース達も何度も聞いています」
医者から彼女のほうへと向き直る。そこにはまるで生きていて、今にでも動き出しそうなほど綺麗なままの彼女の姿があった。
「そして彼女は、自分の様態も省みず記憶を追い求めました。本来ならそれをとめるべきだったのでしょう。もちろん我々も何度も止めました。しかし、彼女は制止を聞かず結局我々が折れるまでに時間はそうかかりませんでした」
そう言った後、医者は懐から何かを取り出した。そこには白い封筒に彼の名前が書かれており、裏には彼の住所が記されてあった。
「あなたに連絡することができたのはこの手紙のおかげです。きっと彼女は死の間際に記憶を取り戻したのでしょう。様態が急変して我々が駆けつけたときには彼女の亡骸のそのそばにこの手紙がおかれてありました」
受け取った手紙を一文字一文字なぞるように読み始める。それは震えた文字で、しかし確かに彼女の文字で書かれていた。医者が何か言っているがもう彼には何も聞こえていなかった。そして、溢れ出す悲しみは彼の意識すら包んでいった。
気がつくとそこには見慣れた天井が広がっていた。上体を起こし辺りを見回すと、そこにはやはり自分の部屋が広がっていた。
(いつのまに部屋に戻ったのだろう、確かさっきまで病院で・・・)
そんなことを考えながら先ほどのことを思い出す。その出来事は確かに彼の頭に焼き付いており、鮮明に記憶されていた。のそのそと布団から抜け出し閉じられたカーテンを開け放つ。朝の光が彼を包み込んだ。そして、日付を確認しようとした彼の目に飛び込んできたのは、デジタル時計に表示された十月二日という文字だった。
「そんなバカな・・・」
病院に行ったのは十月二日の“午後”のこと。そして今が十月二日の“午前”。彼は急いでテレビをつけた。ちょうど朝のニュースが始まるところだったので、確実な日付がわかるはずだと思った。そこにはニュースキャスターが笑顔で十月二日を告げていた。
結局、病院での出来事は夢だと片付けることにした。先ほどのテレビがそれを証明していたし、何よりあんな結末よりは行方不明であってほしかった。身支度を済ませて時計を見る。もう出ないと間に合わない時間になっている。思考を打ち切って会社へと急いだ。
電灯だけが辺りを照らす時間。彼は自宅への帰路の途中だった。その日は残業が長引き、終わったのがつい先ほどのこと、晩飯を軽く外で済ませた後、家でゆっくりとしようなどと思いながら帰っていた。曲がり角を曲がると自分の住むマンションが見えてきた。彼の部屋は一階の一番外側なので、外からもよく見える。ふと玄関のほうを見ると、誰かが家の前に立っている。そのシルエットに見覚えがある気がしたが、とりあえず声をかけようと思い、そこへと急いだ。その女性はずっと玄関のドアの方を向いていたが、彼が後ろの立つと、気づいたのか急に彼に抱きついてきた。彼は一瞬うろたえたが、冷静になると彼女は泣いているようでもあった。
「ただいま・・・」
その一言が脳に響いた。頭では何が起こっているのか理解できなかったが、本能が理解していた。それは、今まで一番聞きたかった言葉が、声が、今目の前にあることを示している。言いたいことは山ほどあった。しかし、諦めていたはずの幸せが戻ってきたという感動がその事を彼の頭から忘れさせていた。
「おかえり」
今の二人にはその言葉だけで何もいらなかった。そして、向き合った先には彼の妻が、いなくなった七年前そのままの格好で、涙目で彼に笑顔を向けていた。
ゆっくりと目を開ける。そこには見慣れない天井が広がっていた。いつの間に眠ったのだろう、と首をかしげる。しばらくボーっとした後、目を覚ますために勢い良く飛び起きる。そして辺りを見回すと一つのテーブルが目に入った。近寄ると何やら白い封筒が置かれていた。そっと手に取ってみる。それは夢であると思っていたあの時受け取った封筒に似ていた。封筒を持つ手が震える。開けたくない、と強く願ってしまう。しかし、あけないと何も始まらない、そんな気がした。
(開けて中身を確認しよう、あれは夢なんだ、あの手紙のはずがない)
その淡い期待は、無常にも打ち砕かれた。そしてその瞬間、彼は走り出していた。目的地は彼女の病室。途中誰かに怒鳴られた気がした、何かにおもいっきりぶつかった気もした。しかし、彼には病院に響く彼の足音しか聞こえなかった。信じられない出来事に頭の中は悲鳴をあげるほど混乱していたが、どうしても確かめなくてはしけなかった。あの先ほどまでの、妙に現実感の強い出来事が夢なのかどうかいうことを、どちらが現実か、ということを。
病室に飛び込んだ彼の目に入ってきたのは彼女の、もう泣くことも笑うこともしない亡骸と、その傍で叫ぶように泣いている彼女の両親の姿だった。その瞬間、彼の心の中に忘れようとしていた悲しみが蘇り、その場に力なくひざまづいた。
それからは目まぐるしいくらい忙しく時が流れた。ツライことなど考えないで済むよう、限界まで体を酷使した。そして、全てが一段落した頃には彼女の部屋に、彼女の遺影と彼の姿だけがぽつんとあった。時刻はもう日付が変わろうかという時間、晩飯用に取っておいた葬式弁当が冷蔵庫に保管されてあったはずだ。おそらく空腹なのだろう、体はそれを欲していたが生憎心が受け付けそうにもなかった。幸福から不幸のどん底へとたたきつけられた彼の心はもう傷つきすぎていた。まるで癒しを求めるかのように、彼は遺影の前でひざを抱えてそれを覗き込んでいた。そして、そのまま意識を失った。
「こら、いいかげん起きなさい!」
女性の大きな声で目が覚める。何事かと思い辺りを見回すと、そこは自分の部屋で、目の前にはいるはずのない彼女が、私怒ってます、とでも言うかのように頬を膨らませている。
「ち、ちょっとどうしたのよ・・・」
気がつけば彼は彼女に抱きついていた。そして、彼女はとても困惑したかのような表情を浮かべていたが、やがて彼の頭を優しく抱きしめてくれた。
「私はもうどこにもいかないから・・・」
もう何も信じられなかったが、その言葉だけは、今の彼にでも信じることが出来そうな、そんな気にさせた。
会社には前日から休むことを伝えていたそうで、そんなことも忘れたのか、と彼女にあきれられてしまった。そして彼女は、遠方から両親が昼までには急いで駆けつけてくれるのだと教えてくれた。軽く朝食を済ませると、彼女には悪い気がしたが一人で部屋に戻った。今の現状を確認するためだったのだが、いざ自分の身に何が起こっているのか、と考えても一向に理解できなかった。どちらかが夢、ということになるのだろうが、どちらも現実味がありすぎて判断がつかない。もちろん頬をつねってもなんともなかった。それから散々色々と考えてはみたが、かつて経験したことのない道の出来事に、彼程度の知識で答えが出るはずもなかった。そして、その思考は、彼の部屋の扉から暇そうに、顔だけを覗かせている彼女の姿を見つけたところで中断された。
しばらく彼女と話していると、すぐに彼女の両親が駆けつけた。涙の再会の邪魔にならないよう、一歩離れたところから眺めていた。そして、その再会はしばらく続いた。昼からは彼女の両親と彼女、そして自分の四人を交えて会話な花を咲かせた。そして、その勢いで彼女の両親の持ってきた酒を使って酒盛りにまで発展した。こうなると誰も手をつけられず、気がつけば一番酒に強かった彼以外はダウンしていた。日本酒の入ったグラスをちびちびと飲みながら辺りを見回す。そこには幸せそうな彼女の姿と、同じく幸せそうな顔をした彼女の両親の姿があった。時たま娘の名前をつぶやいたり、彼女が彼の名前をつぶやいたりする姿を眺めているとついつい酒が進んでしまう。次第に意識を保てなくなってきた。きっと酒が回りすぎたのだろう、と自分を納得させながらも、彼は嫌な予感がぬぐいきれなかった。
目覚めるとそこは自分の部屋だった。先ほどまでの騒ぎが嘘のように静まりかえっている。心の中にある不安を拭い去ろうと自分の部屋のドアを開け放つ。しかし、そこには案の定誰もいなかった。そして、その時点で彼には、自分の身に何が起こっているのか、想像がついた。いつもなら爽やかに感じる朝の雀のさえずりも、今は耳障りに聞こえてしかたなかった。彼女の部屋の戸を持つ手が震える。もう片一方の手で無理やり押さえつけ、扉を開けたその向こうには彼女の遺影と、あの手紙が丁寧に置かれていた。
「は、ははは・・・」
自然と笑いがこみ上げてくる。この現実離れした目の前の光景がおかしくてたまらなかった。そして、幸と不幸が連続で起きることで彼の心は平常心を保てなくなっていた。自分の心が崩壊してゆくのを肌で感じながら、来もしない助けを望んでいた。
「誰か、助けて・・・」
その呟きは静かに散った。
とある病院の病室、そこはいつもと同じ休日の風景を飽きることなく映し出していた。そこには一人の女性がベットの横に備え付けられた小さな椅子に座っている。じっと見つめるその先には、一人の男性がベットの上に静かに横になっていた。その横顔を飽きることなくじっと見つめる。時折話しかけたり、花の水を変えたりはするが、それ以外はずっとじっとしていた。彼女がふと彼の横に置いてあるデジタル時計を見る。そこには、十月一日という数字が刻まれていた。
「あら、今日も来てたんですか」
振り返るとそこには一人のナースが立っていた。検診の時間なのだろう、そのための道具が彼女の傍にある。そんなナースの制服の名札を見てみる。すると、そのナースは顔なじみの一人だった。
「ええ、今日でちょうど七年目ですから。この人が事故を起こして・・・」
七年前のその日、彼は事故を起こした。事故原因は子供の飛び出しを避けようとして電柱に激突というもので、いかにも彼らしいと彼女は思う。幸い死は免れたものの意識不明の状態に陥り、いつ目覚めるか分からない状態になってしまった。そして、その日から早七年。彼女は仕事を続ける傍ら、暇を見つけては彼の元へ訪れるようになった。
「なんども同じ質問してしまいますが、そこまで一生懸命になって気疲れとかしません? 」
「いいえ、そんなことないですよ。今までの恩を考えるとこれくらいなんともないですから」
ニコっと微笑み、そして彼の方へと向き直る。正直言うと、最初の頃は諦めようと思ったことも少なくなかった。しかし、彼は彼女にとってなくてはならない存在だったし、彼のおかげで今の彼女があるといっても過言ではなかった。だから今までずっと看病を続けてきたし、何を言われても笑顔で答え返すことができた。ちなみに、ちょうど今のような質問が一番多かったのは、その時期だった。でも、そのことは誰にも言わず彼女の心の中だけにとどめておいた。それから彼の検診が始まり、彼女はベットを離れた。廊下に出て夕日を見つめていると自然と心が落ち着いた。そして、また明日も頑張ろう、という気になってくる。気がつくと検診も終わっており、日も落ちそうになっていたので病室へ戻る。そろそろ自分も帰らないといけない。傍に置いてあったハンドバックを手に立ち上がる。
「明日からまた仕事だけど、暇を見つけて必ず来るから」
じゃあまたね、と言い残して病室を後にした。その後姿は絶望ではなく、明日への希望で満ちているようだった。
「また明日も頑張ろう」
彼女は小さくそう呟き、自宅へ急いだ。
彼は未だ目覚める気配を示さない・・・。
あとがき
ようやくアップできました、前作の続編です。
非常に繋がり薄いですね〜、自分で痛いくらい実感してます・・・。
でもこの作品は大学のゼミの先生にかなりほめられた作品でもあるんですよ?
オリジナルばかりで二次創作書いてませんね。何か長編考えてみます。